2017年3月26日日曜日

【質問コーナー3】どうして沖縄をテーマにした作品が多いのか 回答編

現在、来月4月に開催される福岡女子大学での髙木秋子展の準備を進めています。その中で、秋子自宅にあった箱を開いてみると、いろいろな発見がありました。

秋子さんが織機のある部屋にずっと置いていた朱塗りの箱の中に古い新聞記事がありました。初めて着物の作品が入選した記事以外は、多くは「沖縄の子供に辞書を送る会」の記事と、送った先からのお礼の手紙でした。

あまりに古く奥付もなく、スキャンしても画像がよめないので一部以下抜粋です。おそらく沖縄復帰前、1969年頃の新聞記事。地の文は【】で、秋子さんの言葉は『  』で示します。

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【沖縄の小学生一人当たりの年間教育費(公費)は36,500円(43年)、本土のそれは6万を超える。この格差は端的に沖縄の置かれた立場を示す数字の一つだろう。髙木秋子さん(53歳 主婦)はこのような格差のなかで学ぶ子供たちの役に立てばと”沖縄の子供達に年鑑と辞書を送る会”を作っている。沖縄に犠牲をしいた本土の一人として、沖縄のためにできることは何かと考えた結果である。】

『昨年夏、初めて沖縄へ行って生活のあらゆる面で本土との格差の大きいのに驚きました。・・終戦直後のままの状態が続いているようでした。・・』

【織物をしている高木さんは染色や織物のふるさと・沖縄をみたいとの願いから海を渡った。だが高木さんの目に映ったものは島の美しさでも、海の青さでもなかった。二十五年前に傷跡の深さと生々しさであった。】

『私、福岡に帰ってきて沖縄に関する本をむさぼり読みました。これまであまりに無関心で過ごしてきた自分が恥ずかしくて、本を送る運動もわたしとしては単なる同情や、お金を出してもらうだけが目的ではなくて、一人でも多くの方が沖縄に眼を向けるきっかけにしたいのです。』

『沖縄にいた十日ばかりの間、泣き通しでした。沖縄の人たちの苦しさ、くやしさがいやというほどわかるんです、それは私たちが二十五年前に味わったものより数倍も強いものです。』

【本職の織物でも沖縄をテーマに追い続けている】

『1972年、沖縄は祖国に復帰します。けれどもそれからの沖縄の苦難の道を考えると胸が痛みます。沖縄の戦後は1972年に始まるといっては、言い過ぎでしょうか。』

『沖縄は単なる労働力の供給源とか、企業の市場拡大のための土地としてしか考えられていないようですが、72年に沖縄をどう迎えいれるのか”母なるふところへ”というのは現実にどうすることなのか、それが私たちの課題でしょう。』

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なぜ沖縄だったのか。父の意見が正しかったのでした。

展覧会の準備のため改めて作品や資料を読み込むと、髙木秋子という作家は「戦争は人間が人間でなくなる。私は人間であることの証明として、動物ではできない道具を使ってもの作りをする」と染織をはじめ、その作品のテーマに、最も激しい戦闘が行われその影響を受け続けている沖縄を選んだ、戦争を生涯追い続けた工芸作家であったのではないのか、ということを感じます。

私自身は孫として、実際何があったのか、何を感じたのかよく聞いてはいないのです。本当の心の中のことは話をしてつたわるものではなかったのでしょうか。

今日は沖縄戦開戦の日。

1987 木綿地風通織着物 月待ちの浜 第34回日本伝統工芸展 日本工芸会会長賞
福岡県立美術館蔵 写真:片山 文博

石垣の竹富島の風景。『台風一過、竹富島の海から大きな月がゆらりと立ち昇る。べた凪の海のわずかな白い波頭が』


自己紹介

2016年秋福岡県立美術館で開催されるコレクション展Ⅱ[山喜多二郎太と高木秋子展の個人的紹介ブログ。高木秋子の家族が書いています。管理人mai