2016年12月31日土曜日

【質問コーナー2】どうして沖縄をテーマにした作品が多いのか

質問コーナー2  どうして沖縄をテーマにした作品が多いのか

会場で寄せられた、また展覧会に来ていただいた方から寄せられた質問です。
実はなぜ沖縄か、ということは家族にも語っておらず、資料も残っていないのです。

●作品集 木綿麗容  および作品の製作年より
「私が大好きな沖縄」
「様々な織物が生まれた気候風土に触発されながら、頭の中にはこれもあれもと織物で表現したいものがあります。例えば与那国島の波と海というモチーフも・・」

とあります。秋子さんは多様な織物がある沖縄に刺激をうけ1960年(昭和35年前)から足しげくかよっていました。年代は未確定なのですが、おそらく風通織と前後して沖縄の絣、花織も作成しています。一方でこうも残しています。

「織物には気候風土と密接に関係しています。それを理解しないままに、私が沖縄を好きだからと、その土地の生地をそのまま織っても、ただの物真似にしか過ぎません。なぜこの織物がその地域で発達したのか、ということを大切にしながら、これからも木綿風通を織りたいと思っています」

沖縄の気候風土、それを基にした織物に触発をうけたので沖縄をテーマにした織物が多かったのではないでしょうか。

あとは家族の推察です。

●長男より
私の父である秋子さんの長男より。
「やはり戦争の影響ではないだろうか。自分たちの子育ての手が離れた時、まずまだ復帰前、復興前の沖縄に目を向けた。沖縄の子供たちに、本を贈る活動などもし、また織の復興に苦労されていた芭蕉布の平良敏子さんとよくやりとりをし、支援もしていた。戦争の惨禍にあった沖縄に対してあつい思い入れがあったのでよく通っていたのでは?」

●嫁より
私の母より
「沖縄は好きだったよね。。亡くなる直前も沖縄に最後に行きたいといっていた。沖縄の風土に恋していたみたい。中国と日本、琉球が混じった風土が、育った北京の租界に似ていたからかな。」

●孫より
「沖縄に一緒にいくと、ぴたっとはまる感じがあった。いつもちょっと周囲との違和感があったおばあちゃん。12歳で最初の小学校をやんわり放校になったおばあちゃんが、ぴたっとはまる場所が沖縄だったなあ」は

実際のことはまだわかりません。

写真は沖縄に行く前、織を始める前のろうけつの作品。もっとも古い染めの作品。
昭和30年代初期かと思われるが詳細は不明。




2016年12月10日土曜日

【質問コーナー1】どうして絵画から染織の道に進んだのか

しばらくは会場でよせられた質問に、資料とマゴの主観からでお答えします。

1.どうして絵画から染織の道に進んだのか
会場で二郎太先生のファンの方から伺ったご質問です。

作品集「木綿麗容」には「私は若い頃、絵描き志望でした。しかし先の大戦で、その価値観は大きく変わってしまいました。人間らしく生きるためには、自分で食べるもの、着るものなど一番基本的なモノづくりができなければ駄目だと。そして選んだのが、絵画と同じように色が使える手織物です」とあります。

また昭和61年の福岡女子大学の同窓会報には直接的な言葉があります。
「戦時中二人の息子を育てながら私が子供達の残せるものは何だろうと真剣に考えるようになりました。・・・・略・・・・人間と動物の違いは何だろうと考えているうちに人間は、道具と手足を使ってものを創り出す事だと思いあたりました。動物は・・略・・・道具を使って何かを創り出すことはできませんよね。それは人間にしかできない事だと思いました。この戦争で生き残ることができたら、素材そのものを使ってものを創り出す仕事をしようと思い、繊維を選びました。」

細い身体の夫が出征した後、安全と言われた市ヶ谷から福岡に疎開。さらに福岡県南部の羽犬塚に疎開するも、幼い息子と機銃掃射にあった秋子さん。息子の、つまり私の父の最初の記憶は大牟田大空襲で赤く燃える夜空でした。自慢の兄も、裕福な実家も、新婚の家も、作品も灰燼に帰し、石だけが残りました。

この戦争で生き残ることができたら、ものづくりをしよう。
人間が人間である証明としてものづくりをしよう。
それには絵画に近い染織が入りやすい。

それが染織を始めた理由だったと思います。






2016年12月4日日曜日

【記事紹介】新聞、WEB等での展覧会紹介

新聞、WEB等での展覧会紹介はこちらです。


〇新聞

西日本新聞夕刊
2016/11/28付 西日本新聞夕刊

〇WEB

ART AgendaA

Fukuoka Museum Info 福岡ミュージアム情報

キレイライフプラス 九州のとっておき

かたらんね

サンデー新聞WEB



【関連展覧会】直方谷尾美術館 山喜多二郎太特集


直方市の直方谷尾美術館でも山喜多二郎太生誕120年を記念して展覧会が開催されています。会期は同じく1月29日までです(休館:月曜、12/20-1/3、1/17-1/21)。ロマンある建物も素敵ですね。ぜひ県立美術館と合わせてごらんください。

また県立美術館の会場では、2011年に直方谷尾美術館開館10周年記念企画「山喜多二郎太展-和合の心」の図録を販売しています。直方の皆さんが二郎太先生を大切に思う気持ちであふれた画集でした。コピーは「あした、母に会いに行こう!」



Facebookページ

HP



2016年12月3日土曜日

【記事紹介】日経新聞夕刊12月2日 竹口さんの端正な記事

12月2日の日本経済新聞の夕刊文化面「アプローチ九州」に展覧会の紹介記事が掲載されました。

書かれたのは、竹口浩司さん。二郎太先生を経糸に、秋子さんを緯糸にした端正な記事。
「自然の一片からもう一つの自然を出来させるというわざは、安易な自己表現から一線を画している」

竹口さんは福岡県立美術館の学芸員として、ずっと秋子さんの展示を考えていてくださいました。一緒に、「もう一人のマゴ」としてあちこちをまわったのも楽しかったです。途中で広島現代美術館に転籍されたのですが、展覧会初日にきて、じっくり書いていただいて、とても嬉しいです。







2016年11月26日土曜日

展覧会情報

展覧会はオープン1週間、快調です。

女性のかた、年配のかた中心に日ごろのコレクション展の
倍にちかいペースできていただいているとのこと。ありがとうございます。

イベント、速報はこちらから!

Facebook ページ (facebook に参加していない方もみることができます!)

https://m.facebook.com/fuutsu.takagi/?ref=bookmarks


2016年11月25日金曜日

幻の租界

秋子さんが残した写真には1910年代の中国と、中国から日本への移動中撮影されたと思われるものが多くありました。ヨーロッパ風の庭園、ロシア正教徒の教会やお墓、中華風の門、巨大な船、電車、荒野、橋、テグの駅、水辺、チョゴリを着た少女、、、。

秋子さんは生まれてから12歳まで、北京の租界ですごしました。辛亥革命から満州事変前夜という中華民国の時代でした。世界中から野心あふれる人々が集う、怪しい、きな臭い、魅力的な人種のるつぼ。。私の曾祖父倉田康太郎も、そんな野心ある一人だったのでしょう。経営していた倉田病院は外科の病院でしたが、非公式に人々が交差する情報基地でもありました。我が家にいまもある清の玉、外務省の高官のカフス、そして宮崎滔天が名付け親の兄と陸軍の大将の娘と結婚した叔父。

北京租界での日々、そこで出会った人々というのは、秋子さんの行動・感性・感覚の基本になっていました。沖縄を中心にアジア全体に旅をし、モチーフと技術を追い求めたのもその影響があったと私は考えています。

今回の展覧会で展示されている「柳あおめる」という作品は経浮織といい、中国奥地で出会った織をもとに秋子さんが開発した織です。この中国奥地旅行の際、中国語を勉強し、北京時代の同級生の力をかり、かつての実家を探していたことを私は知っています。租界も病院も全く跡形もなかったことも。



2016年11月19日土曜日

狂気としかいいようのないもの

山喜多二郎太と高木秋子展がオープンしました。

下の階のピーターラビット展に比べると地味な展覧会に、ぽつぽつと、でも確実にお客さんがきてくださってまして、とてもありがたかったです。二郎太先生、秋子さんの前半も、日本絵画の後半も面白く、充実した中身かと思います。二郎太先生の作品はなんて素敵なんでしょう。私は油絵ならはる、残雪、水墨画なら収穫、と思います。

仙厓さんに妖怪絵巻など楽しみがにじみ出る日本画特集、家にあったらどれだけ毎日が幸せになるだろうという二郎太先生の作品の中で、秋子さん晩年の作品が異彩を放っていました。
特に「勿忘草」。何回も見ているし、触っているし、写真も撮っているし、展覧会会場で展示された形でも見たのですが、でも、ここまで恐ろしい、怖いと思ったことはありませんでした。

これが、30年以上にわたり共にご飯をたべ、時には共に眠り、共に過ごした人の作ったものなのか。家にあり、触っているときは、「おばあちゃん」を感じ暖かくなっていたものであったけれど、作品としてみると、狂気としかいいようのないもの、その遠さを感じ、うたれて帰ってきました。

写真 勿忘草(一部)2007  高木家蔵、撮影 mai  文章はmai facebook修正

2016年11月18日金曜日

ガラスケースから出してふれてもらう

展覧会開催まであと1日になりました。

展示は二郎太先生の絵と秋子さんの織が交互に展示されるコーナーをメインに、小特集として日本近代絵画や江戸期の絵巻物などの近年寄贈された日本画のコレクションが展示される予定です。合間に秋子さんが描いた油絵、今回見つかった二人の合作の水彩画なども展示されます。

工夫として、高木家蔵の作品一点を撮影可能にしていただきました。ガラスケーズに入れず下において、ちかよって、撮影できるようになっています。ぜひたくさん写真をとって、作品を感じて下さい。

また、もっと直接作品に触れられる工夫も試みました。小さな小切れと風通織の糸をお預けし、受つけで触れるようになっているはずです。

そのほかイベントやお得情報は展覧会のfacebook で主に案内しています。ご覧ください。

※小特集について修正しました 11/18

「八重山の春」 九州国立博物館工芸のいま 伝統と創造(H21) 出品
裏と表で微妙に違うのがポイント


2016年11月15日火曜日

【作品紹介】桃春




『故宮に通じる石畳の廊下。両側の細長い内庭には花桃があでやか。北京は故宮、ものうい春の昼下がり』




福岡県立美術館蔵 
1991 木綿地風通織着物 「桃春」
文章引用:木綿麗容

2016年11月14日月曜日

隣のイギリス人の男の子を泣かせる

展覧会開催1週間を切り、いまさらですが家族で写真整理をしてみました。貴重な写真がいろいろでてきて、ちょっと遅かったかも、、と思います。

写真は幼い秋子さん。不思議な服をきて、ベッドでうつむいています。いたずらをするとGO TO BED! とお母さんに怒られたときいていますので、そのお仕置きをうけている写真でしょうか。秋子さんが生まれ育ったのは北京の租界の病院です。家は洋風で、布団ではなくベッドだったのです。
それにしても何をしたのでしょうか。私の曾祖母は厳しかったとは聞いていますが、一方で、隣のイギリス人の男の子の木馬を取り上げ泣かせたとなどというのも聞いています。。

公式には次のように語っています。「北京ではイギリス人について英語を習ったり、好きな油絵を描いて過ごしました。文化も違えば言葉も違う外国人の中で育ちましたので、ある程度自己主張しないとだめでした。ともかくいうべきことは言わないのとね」




※出典 福岡女子大学 筑紫海会会報S61.11.5










2016年11月7日月曜日

【作品紹介】水草の花(1)

紹介1 木綿地経浮織着物 水草の花(1991)

『エイピンという美しい名前の女性に出逢った。水の豊かなこの地で生まれたとき、父上が名づけられたとのこと。そこ、ここに灌漑用の池があり、いろいろな水草が、可憐な花を咲かせていた。』





片経織という織は、秋子さんの造語。『中国のチワン自治区で若い娘さんがベルト用に織っていた美しい布をなんとか着物に使えないかとおもっていたのです。裏が平織り、表が浮き織り』
裏地には糸が一切でていない不思議な織。北京の租界で多様な西洋人・東洋人の中で生まれ育った秋子さんは、晩年になっても中国や台湾の奥地に出かけ、参考となる織を探し求めていた。

所蔵:福岡県立美術館
写真:片山 文博
※今回の展覧会には展示されていません。


2016年11月5日土曜日

何十年か後にそっと何かが生まれてくれたら~作品公開にあたって


さて、今日からは、秋子さんの作品集「木綿麗容」から作品紹介をします。今年中は展覧会に展示されていないものを中心に紹介します。

紹介に当たっては、現在作品を所蔵している福岡県立美術館、木綿麗容を制作した祥文社印刷(株)さんはじめ多くの皆さまのご協力をいただきました。とくに祥文社印刷の花村様にはフィルムをデジタル化していただいたことで、作品公開が実現しただけでなく、恒久的にデータとして残すことができました。改めて感謝申し上げます。

著作権であったり、作品の模倣の問題であったり、公開にはいろいろなリスクが伴います。それでも私は長年、長期間公開可能なデジタル空間上での公開を目指してきました。

伝統工芸の世界では、家内工業という性質、修練に時間がかかることなどから子孫がその技を継ぐことが多いです。実際その状況に直面し、それはよい方法の一つだと実感しました。
でも私は、自然を表現するのではなく、自分の土木という仕事の分野で、自然とまちそのものをこれからも作っていきたいのです。

一方で一人の人間が人の枠を超えて作ろうとしたものも後世に伝えたいと思っています。

今まで作品をみて染織の世界に進んでくださった方、風通織を始めてくださった方もおられます。そういった方は、血縁はなくとも大切なあとを継いでくださる方々と思っています。
また分野は違っても、何かを感じた方の何十年か後にそっと何かが生まれてくれたら、ものづくりの分野でなくとも作品の破片が、その方のからだに残ってくらしを豊かにしてくだされば。そういう形で伝わっていくことを心より願っています。

麻衣



※クリックすると拡大できます。

作:高木秋子
上:「半夏生(1999)」 下左から「清流(1993)」「凪(1985)」「ちゅら、うりずん-若夏賛歌(1994)」
出典:木綿麗容(2001)
所蔵:福岡県立美術館
撮影:片山文博(2001) 協力:祥文社印刷(株)、西山満


展覧会のお知らせ用封筒ができました

展覧会のお知らせ用封筒ができました。私たち家族から、秋子さんのお別れに来ていただいた方、お世話になった方などにお知らせを送る封筒です。

作家活動を続けておらず屋号を持たず住所も違う、我が家からのお便りでは伝わりにくいだろうと思い改めて、封筒、お便りを作成してみました。

デザインは、くすかきで知り合った河村美季さんです。
くすかきのHPなどの構築、太宰府検定のデザインなどを身近で見て、いつかお願いしたい、できれば私の仕事である都市・土木関連ではなく、美術関連でお願いしたいと思っていました。

今までちょくちょく秋子さんのことをお話ししていましたが、改めてお話しを聞いてもらい、お任せしてできたデザイン。二郎太先生や秋子さんの作品を思わせるすっきりした雰囲気がとてもうれしく、プロにお願いしてよかったと心から思います。今から家族でこつこつ配送します。







2016年11月2日水曜日

藤島武二に反抗して教室を抜け出す


二郎太先生のエピソードで私が面白いなぁと思うのは次のような「反抗」エピソードです

・東京芸術大で藤島武二 門下でありながら、藤島先生に反抗して教室を出ていってしまう
・友人たちが皆フランスに留学するものだから、一人中国にいってしまう
・帝展の自身の初入選作品に対して「これは帝展芸術と申すものです。自己の芸術はいつ作ってお目にかけますことやら」と言い切る
・戦時特別文展に平和な農村風景をだし、画面の片隅のトンボを指さして「飛行機を描いているから戦争画だ」とこれまた言い切る

似ている師弟です。私も、近しいものを感じます。

先生は「反抗」したままで終わらず、昭和初期から福岡市にアトリエや研究所を構え、福岡の後輩たちの指導にあたりました。この頃、秋子さんも二郎太先生に習っています。残った写真や成績表から福岡県立女子専門学校の課外活動と、アトリエ双方で習っていたようです。その後二郎太先生は福岡県美術協会の創立委員になるなど指導的立場として福岡県の美術の基礎を築き、戦後は美術の重鎮として活躍していくのです。




はる 1962年 福岡県立美術館蔵 






参考:福岡県立美術館ニュース とっぷらいと64福岡県美術家列伝 山喜多二郎 西日本新聞 2007.8.7 「展覧会 山喜多二郎展」
作品引用:福岡県立美術館ニュース とっぷらいと104号

2016年10月29日土曜日

風通織

さて、今回の展覧会で展示される作品の8割近くが木綿で織られた「風通織(ふうつうおり)」という織になる予定です。

この風通織は一見、1枚の布にみえますが、2枚の布が柄の部分で合わさっており、よく断面を見ると二重の袋になっているという織です。秋子さんは福岡県の浮羽地方で織られていた風通絣という絣の端切れをほどきながら考えて作っていったと聞いています。

最も基本的な平織では、2本の脚で、2本の踏木を交互に踏み、その合間に緯糸(よこいと)を通して織っていきます。しかし風通織では2本の脚で8本の踏木を32回パターン踏むと、9個の格子ができます。両面あるため16×2で32回です。さらに経糸は8つのそうこうという枠に間違いないようにセットしていかないればなりません。このそうこうは全部で2640本あります。

さらに晩年、糸はどんどん細くなっていきました。その分切れてしまうのです。

そこまでして作りたかったもの、表現したかったものは何だったのか。よく考えます。


風通織の写真 日本工芸会会長賞受賞作「勿忘草」(2007)の端切れ。正式に命名された最後の出品作。まんなかに糸がうつっています。





参考 木綿麗容


2016年10月27日木曜日

織のざっくりした過程の説明


織というと、機に緯糸を道具(杼(ひ)といいます)を通し、とんとんとする、というイメージがあるかと思います。この段階は秋子さんに言わせると最後の2割だそうです。

私の超おおざっぱな理解によると、秋子さんの場合、この織る過程は

・デザインを考える(6,7年間かかる) ★大事★
・糸を染める    (だいたい1~2週間)
・糸車等をつかって緯糸を巻き取って準備する。また経糸も糸枠に巻き取る
・整経台をつかって経糸を整える 
・経糸を機にセットする ★一番大変★ 2週間かかる  ここまでで8割

・織る

となります。

私は3番目の糸車を使うことは子供のころ少しさせてもらったことがありますが、すぐ絡まってしまったり、うまくきれいに巻けなかったり、切れてしまったり。とてもろくにできたためしがありません。結果、全然覚えずに大きくなってしまったのでした。

染めた糸、糸枠、杼










2016年10月25日火曜日

木綿の作品を画像に残すということ2 花村さんのお話し


「おうちに伺うのは楽しかったです。いくらでもお話しができてました。」

祥文社印刷の花村さんは、名刺の肩書とは少し離れた柔らかい風情でそうおっしゃいました。

「おうちにうかがうでしょう。庭のうぐいすや野鳥が立ち寄れるよう、果物をさしておられましたよね。
『今年のうぐいすはへたくそなのよねっ』などと言われていました。エネルギッシュでお話しがおもしろくて。」

「昼夜織は裏表の色が昼と夜みたいに違うから名前がついたのよ、といったいろいろなことも教えてくださりました。」

「木綿麗容を作るときは、自由にさせていただきました。原寸大を掲載したらという提案も受けてくださいました。安いものではないので、納得のいくまで作っていただくのも使命とおもって、お付き合いしました。私はそれまで工芸や着物に縁がなかったのですが、高木先生が縁をくださったと思います。」

お話しを聞いていると、居間が、織機のある作業場の空気がみえてくるようでした。維持できず壊してしまったのですが。時間をかけて温度を下げたお湯で入れた緑茶がでてきて、あの特徴ある話声が聞こえてくるようでした。 

お話しありがとうございました。

作業場の裏に咲いていた秋明菊の子孫。




2016年10月22日土曜日

木綿の作品を画像に残すということ1 ~木綿麗容デジタル化へむけた御礼

2001年に、秋子さんは「木綿麗容」という作品集をつくりました。死んだとき配ればいいわー、遺書がわりよーと私にはかるいかんじで告げていました。
今、作品の細い糸までうつした写真と印刷の質感の再現性、まるで論文のように書かれた具体的な織の技法、染色に対する化学的な知識などにようやく気が付いているところです。

今回の展覧会をきっかけに、この作品集に使われたフィルムのデジタル化とブログでの公開を進めています。

しかし確認してみて気が付いたのですが、フィルムは4の5といわれる11cm以上の大きなもので、私の手におえるものではありませんでした。県美の学芸員の魚里さん、アルバスのカメラマン酒井さん、作品集のデザイナー ミタスデザインの西山さん、そして監修の祥文社印刷の花村さん、、、皆様のアドバイスとお力添えにより、デジタル化が実現しつつあります。

進めてみるとほぼすべての作品が販売したり寄贈して家族の手元にはないこと、暑い場所で保管していたので劣化の可能性もありうることがわかりました。今しかありませんでした。ご協力いただいています皆様に改めて感謝申し上げます。

また、作品集に向けてなみなみならぬ熱意を秋子さんが持っていたことを実感しました。木綿は写真では風合いを表現するのが難しい、という話はきいていました。この作品集では撮影、デザイン、印刷まで、相当つっこんだやりとりが繰り返されたのではないかと思います。「満足いくまでお付き合いするのが私の仕事だと思いました」と花村さんがおっしゃられていたのが心にのこりました。

写真は残されていた色校とフィルム








2016年10月18日火曜日

大事なものは気が付かず記録にも残していない

どんな風に風通織を織っていたか紹介してみて、と友人に言われて、書こうとしています。

でも、もっとも集中すると本人が書いている経糸を機にセットしている姿は全く残っていませんでした。染めている姿、整経台にかけている姿もです。私はそもそもこれらを見たことがありません。
見たことがないのか、見ようとしなかったのか。

織っている姿は知っています。正確に言うと音を聞いていました。とーん、たったっという音が泊まった朝の布団の中、隣の部屋から聞こえていました。でも織る姿も、見たことはほとんどないのです。鶴の恩返しのように。

外国人の友人を兄が連れてきて、デモンストレーションをしてくれた、その時の写真だけが残っていました。

 


2016年10月14日金曜日

最後のデザインスケッチ

秋子さんが作品を作るときは、色鉛筆でイメージを描き、横に数字をかいてメモをつくっていました。

写真はなくなる約3週間まえの作品アイデアの写真。名古屋の若い風通織の方とお会いし、刺激をうけたと話していました。いつも正確にえがかれている柄がちょっと横になっていたり、数字が大きかったりしています。

亡くなったあと、経糸(たていと)をととのえる整経台にとめてあったメモの字はひどくよれていました。でも、一番労力をつかう経糸の準備はすんでいました。





2016年10月13日木曜日

協調性には良くも悪くも重きをおかない


二郎太多先生に教わっていた当時、おそらく着ていたと思う着物が我が家にのこっています。赤、青、黒、白、黄色の竹林を模したサイケな柄。学生時代は「ブラジレイロ」へコーヒーを飲みに行っていたと私は聞いています。これを着て、博多の街を闊歩し、芸術談義をしたのでしょうか。

博多町屋ふるさと館で女専の学生の絵をみたことがあります。確かウグイス色、しぶいむらさき色の単色のきものに紺のはかま、でした。
どれほど学校でういていたことでしょう。人と違うことをおそれないひとでした。

協調性には良くも悪くも重きをおかないひとでした。





2016年10月12日水曜日

人間らしく生きるため私は絵を描くように木綿に向かいます


山喜多二郎太と高木秋子(これからブログでは二郎太先生と秋子さんと呼びます)は福岡県立女子専門学校(現福岡女子大学)で、美術の先生と生徒として出会いました。

おそらく、その後の家族同士の付き合いから、学校を離れて個人的にも授業も受けていたのでしょう。そのなかで二郎太先生の「キモノ少女」(現福岡市立美術館蔵)という秋子さんをモデルにした作品などが生まれたのだろうと思っています。今度の展覧会に向けて家を探している中で高木家から未発表の共作も見つかりました。

秋子さんは先生の教えをもとに絵を描きつづけ、絵描きになろうとフランス留学まで試みていたのですが、戦争がおき、移動につかう予定だったシベリア鉄道が使えなくなったため留学を断念します。

戦後、あまりに多くのものを失った秋子さんは人間らしく生きるためには、自分で食べるもの、着るものなど、一番基本的なモノづくりができなければだめだと、染織をえらびます。染織は色をつかい今まで努力してきた絵にちかいので。

それから30年以上をかけ、風通織という織を生み出します。それは抽象絵画であり、美術品であり、そして木綿という日用品でした。

タイトルは木綿麗容という秋子さんが編んだ本の冒頭にある文です。







山喜多二郎太と高木秋子展のご紹介

この秋、福岡県立美術館で、「コレクション展Ⅱ特集: 山喜多二郎太と高木秋子展」が開催されます。

師弟にあたる二人が、2017年それぞれ生誕120年、100年にあたります。それを記念し
2人の芸術を始めて関連づけて紹介する展覧会です。


このブログでは、高木秋子の家族、主に孫のmaiが中心になって、展覧会の情報や家族からみた思い出、作品についてお伝えします。

【展覧会情報(予定)】

会期:2016年11月19日(土)から2017年1月29日まで

場所:福岡県立美術館 

福岡県立美術館所蔵の山喜多二郎太と高木秋子の作品を中心に展示の予定




自己紹介

2016年秋福岡県立美術館で開催されるコレクション展Ⅱ[山喜多二郎太と高木秋子展の個人的紹介ブログ。高木秋子の家族が書いています。管理人mai