2016年11月26日土曜日

展覧会情報

展覧会はオープン1週間、快調です。

女性のかた、年配のかた中心に日ごろのコレクション展の
倍にちかいペースできていただいているとのこと。ありがとうございます。

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2016年11月25日金曜日

幻の租界

秋子さんが残した写真には1910年代の中国と、中国から日本への移動中撮影されたと思われるものが多くありました。ヨーロッパ風の庭園、ロシア正教徒の教会やお墓、中華風の門、巨大な船、電車、荒野、橋、テグの駅、水辺、チョゴリを着た少女、、、。

秋子さんは生まれてから12歳まで、北京の租界ですごしました。辛亥革命から満州事変前夜という中華民国の時代でした。世界中から野心あふれる人々が集う、怪しい、きな臭い、魅力的な人種のるつぼ。。私の曾祖父倉田康太郎も、そんな野心ある一人だったのでしょう。経営していた倉田病院は外科の病院でしたが、非公式に人々が交差する情報基地でもありました。我が家にいまもある清の玉、外務省の高官のカフス、そして宮崎滔天が名付け親の兄と陸軍の大将の娘と結婚した叔父。

北京租界での日々、そこで出会った人々というのは、秋子さんの行動・感性・感覚の基本になっていました。沖縄を中心にアジア全体に旅をし、モチーフと技術を追い求めたのもその影響があったと私は考えています。

今回の展覧会で展示されている「柳あおめる」という作品は経浮織といい、中国奥地で出会った織をもとに秋子さんが開発した織です。この中国奥地旅行の際、中国語を勉強し、北京時代の同級生の力をかり、かつての実家を探していたことを私は知っています。租界も病院も全く跡形もなかったことも。



2016年11月19日土曜日

狂気としかいいようのないもの

山喜多二郎太と高木秋子展がオープンしました。

下の階のピーターラビット展に比べると地味な展覧会に、ぽつぽつと、でも確実にお客さんがきてくださってまして、とてもありがたかったです。二郎太先生、秋子さんの前半も、日本絵画の後半も面白く、充実した中身かと思います。二郎太先生の作品はなんて素敵なんでしょう。私は油絵ならはる、残雪、水墨画なら収穫、と思います。

仙厓さんに妖怪絵巻など楽しみがにじみ出る日本画特集、家にあったらどれだけ毎日が幸せになるだろうという二郎太先生の作品の中で、秋子さん晩年の作品が異彩を放っていました。
特に「勿忘草」。何回も見ているし、触っているし、写真も撮っているし、展覧会会場で展示された形でも見たのですが、でも、ここまで恐ろしい、怖いと思ったことはありませんでした。

これが、30年以上にわたり共にご飯をたべ、時には共に眠り、共に過ごした人の作ったものなのか。家にあり、触っているときは、「おばあちゃん」を感じ暖かくなっていたものであったけれど、作品としてみると、狂気としかいいようのないもの、その遠さを感じ、うたれて帰ってきました。

写真 勿忘草(一部)2007  高木家蔵、撮影 mai  文章はmai facebook修正

2016年11月18日金曜日

ガラスケースから出してふれてもらう

展覧会開催まであと1日になりました。

展示は二郎太先生の絵と秋子さんの織が交互に展示されるコーナーをメインに、小特集として日本近代絵画や江戸期の絵巻物などの近年寄贈された日本画のコレクションが展示される予定です。合間に秋子さんが描いた油絵、今回見つかった二人の合作の水彩画なども展示されます。

工夫として、高木家蔵の作品一点を撮影可能にしていただきました。ガラスケーズに入れず下において、ちかよって、撮影できるようになっています。ぜひたくさん写真をとって、作品を感じて下さい。

また、もっと直接作品に触れられる工夫も試みました。小さな小切れと風通織の糸をお預けし、受つけで触れるようになっているはずです。

そのほかイベントやお得情報は展覧会のfacebook で主に案内しています。ご覧ください。

※小特集について修正しました 11/18

「八重山の春」 九州国立博物館工芸のいま 伝統と創造(H21) 出品
裏と表で微妙に違うのがポイント


2016年11月15日火曜日

【作品紹介】桃春




『故宮に通じる石畳の廊下。両側の細長い内庭には花桃があでやか。北京は故宮、ものうい春の昼下がり』




福岡県立美術館蔵 
1991 木綿地風通織着物 「桃春」
文章引用:木綿麗容

2016年11月14日月曜日

隣のイギリス人の男の子を泣かせる

展覧会開催1週間を切り、いまさらですが家族で写真整理をしてみました。貴重な写真がいろいろでてきて、ちょっと遅かったかも、、と思います。

写真は幼い秋子さん。不思議な服をきて、ベッドでうつむいています。いたずらをするとGO TO BED! とお母さんに怒られたときいていますので、そのお仕置きをうけている写真でしょうか。秋子さんが生まれ育ったのは北京の租界の病院です。家は洋風で、布団ではなくベッドだったのです。
それにしても何をしたのでしょうか。私の曾祖母は厳しかったとは聞いていますが、一方で、隣のイギリス人の男の子の木馬を取り上げ泣かせたとなどというのも聞いています。。

公式には次のように語っています。「北京ではイギリス人について英語を習ったり、好きな油絵を描いて過ごしました。文化も違えば言葉も違う外国人の中で育ちましたので、ある程度自己主張しないとだめでした。ともかくいうべきことは言わないのとね」




※出典 福岡女子大学 筑紫海会会報S61.11.5










2016年11月7日月曜日

【作品紹介】水草の花(1)

紹介1 木綿地経浮織着物 水草の花(1991)

『エイピンという美しい名前の女性に出逢った。水の豊かなこの地で生まれたとき、父上が名づけられたとのこと。そこ、ここに灌漑用の池があり、いろいろな水草が、可憐な花を咲かせていた。』





片経織という織は、秋子さんの造語。『中国のチワン自治区で若い娘さんがベルト用に織っていた美しい布をなんとか着物に使えないかとおもっていたのです。裏が平織り、表が浮き織り』
裏地には糸が一切でていない不思議な織。北京の租界で多様な西洋人・東洋人の中で生まれ育った秋子さんは、晩年になっても中国や台湾の奥地に出かけ、参考となる織を探し求めていた。

所蔵:福岡県立美術館
写真:片山 文博
※今回の展覧会には展示されていません。


2016年11月5日土曜日

何十年か後にそっと何かが生まれてくれたら~作品公開にあたって


さて、今日からは、秋子さんの作品集「木綿麗容」から作品紹介をします。今年中は展覧会に展示されていないものを中心に紹介します。

紹介に当たっては、現在作品を所蔵している福岡県立美術館、木綿麗容を制作した祥文社印刷(株)さんはじめ多くの皆さまのご協力をいただきました。とくに祥文社印刷の花村様にはフィルムをデジタル化していただいたことで、作品公開が実現しただけでなく、恒久的にデータとして残すことができました。改めて感謝申し上げます。

著作権であったり、作品の模倣の問題であったり、公開にはいろいろなリスクが伴います。それでも私は長年、長期間公開可能なデジタル空間上での公開を目指してきました。

伝統工芸の世界では、家内工業という性質、修練に時間がかかることなどから子孫がその技を継ぐことが多いです。実際その状況に直面し、それはよい方法の一つだと実感しました。
でも私は、自然を表現するのではなく、自分の土木という仕事の分野で、自然とまちそのものをこれからも作っていきたいのです。

一方で一人の人間が人の枠を超えて作ろうとしたものも後世に伝えたいと思っています。

今まで作品をみて染織の世界に進んでくださった方、風通織を始めてくださった方もおられます。そういった方は、血縁はなくとも大切なあとを継いでくださる方々と思っています。
また分野は違っても、何かを感じた方の何十年か後にそっと何かが生まれてくれたら、ものづくりの分野でなくとも作品の破片が、その方のからだに残ってくらしを豊かにしてくだされば。そういう形で伝わっていくことを心より願っています。

麻衣



※クリックすると拡大できます。

作:高木秋子
上:「半夏生(1999)」 下左から「清流(1993)」「凪(1985)」「ちゅら、うりずん-若夏賛歌(1994)」
出典:木綿麗容(2001)
所蔵:福岡県立美術館
撮影:片山文博(2001) 協力:祥文社印刷(株)、西山満


展覧会のお知らせ用封筒ができました

展覧会のお知らせ用封筒ができました。私たち家族から、秋子さんのお別れに来ていただいた方、お世話になった方などにお知らせを送る封筒です。

作家活動を続けておらず屋号を持たず住所も違う、我が家からのお便りでは伝わりにくいだろうと思い改めて、封筒、お便りを作成してみました。

デザインは、くすかきで知り合った河村美季さんです。
くすかきのHPなどの構築、太宰府検定のデザインなどを身近で見て、いつかお願いしたい、できれば私の仕事である都市・土木関連ではなく、美術関連でお願いしたいと思っていました。

今までちょくちょく秋子さんのことをお話ししていましたが、改めてお話しを聞いてもらい、お任せしてできたデザイン。二郎太先生や秋子さんの作品を思わせるすっきりした雰囲気がとてもうれしく、プロにお願いしてよかったと心から思います。今から家族でこつこつ配送します。







2016年11月2日水曜日

藤島武二に反抗して教室を抜け出す


二郎太先生のエピソードで私が面白いなぁと思うのは次のような「反抗」エピソードです

・東京芸術大で藤島武二 門下でありながら、藤島先生に反抗して教室を出ていってしまう
・友人たちが皆フランスに留学するものだから、一人中国にいってしまう
・帝展の自身の初入選作品に対して「これは帝展芸術と申すものです。自己の芸術はいつ作ってお目にかけますことやら」と言い切る
・戦時特別文展に平和な農村風景をだし、画面の片隅のトンボを指さして「飛行機を描いているから戦争画だ」とこれまた言い切る

似ている師弟です。私も、近しいものを感じます。

先生は「反抗」したままで終わらず、昭和初期から福岡市にアトリエや研究所を構え、福岡の後輩たちの指導にあたりました。この頃、秋子さんも二郎太先生に習っています。残った写真や成績表から福岡県立女子専門学校の課外活動と、アトリエ双方で習っていたようです。その後二郎太先生は福岡県美術協会の創立委員になるなど指導的立場として福岡県の美術の基礎を築き、戦後は美術の重鎮として活躍していくのです。




はる 1962年 福岡県立美術館蔵 






参考:福岡県立美術館ニュース とっぷらいと64福岡県美術家列伝 山喜多二郎 西日本新聞 2007.8.7 「展覧会 山喜多二郎展」
作品引用:福岡県立美術館ニュース とっぷらいと104号

自己紹介

2016年秋福岡県立美術館で開催されるコレクション展Ⅱ[山喜多二郎太と高木秋子展の個人的紹介ブログ。高木秋子の家族が書いています。管理人mai